公益社団法人 日本技術士会北海道本部

第13回工業技術研究会
日時 昭和63年8月9日( )午後 時〜 時
場所 
   
出席者数 名
情報交換
講演 ”石炭のはなし”

         紫雲   千鶴雄 氏

<要旨>
1. 石炭とは
我が国で一般的に石炭と呼ばれるようになったのは、明治初年に西欧の採炭技術が入って、特にドイツ語のSteinkolenを日訳したものと言われ、その以前、すなわち徳川時代の中期から北九州地方で行われていた採炭では五平太(ごへいだ)とか石炭(いしずみ)などと呼ばれ、さらに他地方では岩木(いわき)、燃石(もえいし)、鳥丹(うに)、鳥朱(うし)などと呼称されたといわれていたようです。
石炭生成物質が植物なのは当然ですが、内容的には陸生と水生に分かれます。

2. 回想
故嶋田さんの十年祭のミサを捧げる旨の通知を受け、上京出席して参りまして、舒蘭時代を共にした人達との再会、また初めてながら戦後の関係文書などで知った方々にもお会いできて、このような文を読んでいただきたくなった次第です。
S14、満州国との共同出資で吉林人造石油、原料供給の舒蘭炭鉱、運搬に吉林鉄道の3社が発足しまして、翌15年春から嶋田さんはチッソと役所間の連絡員に選ばれ、経済部鉱山司の石炭担当主任事務官になられました。
そして同僚の高橋忠八さんと深い親友になられた由。また同室の技官は私と北大同期の金常吉夫君と14期の近藤忠君 。
そして時局はS16年末の日米開戦へと移り、やがて嶋田さんが残務処理のトップとしてご家族とともに炭鉱社宅へ移って来られました。火薬庫の多量な残火薬がある上、取扱責任者の転出後だったため、至急資格を得るようにとのことで嶋田課長のお供をして役所訪問し、学歴、経験OKで合格となりました。この余談になりますが、処分不明の点を軍が知り、私が責任者として満人警官に連れられ列車で新吉林駅で下車したら、嶋田さんからの事前連絡で‘人石’の上司がホームに待っておられ事なきを得ました。
ミサの会場でのお話に戻りますが、前期の高橋忠八さんは戦後商工省などでお勤めの後、嶋田さんが亡くなられたS.52.2月には岩手県水沢市長をしておられ、W葬儀参加者に大きな感銘を与えた長い弔辞を読まれたWとのこと、お会いできて感激でした。また、宗像英二さんにも、鎌田正二さん(当日世話役をなさっていた)に頼んで紹介していただきました。

3. 天北地区で石炭液化
私が今も有席するチッソ系の鞄窒工業が、10年余りも昔のことですが経理的な考えから未開発鉱区処分提案をした中に、上幌延も含まれたが、私は強く主張、願って残してもらったのが現在の7鉱区152,060アールで、中の露天掘り対策区域面積は約4,600103m2です。
炭層の厚さは200〜250m、炭層は上位より3〜9番層と呼ぶ7枚を含む。
近年土木用機械の飛躍的な発達により、オープンカットでの掘削率も上昇して行くから、私の計算でも可採炭量は200万tを越える筈である。
地質調査所の天北炭田の説明発表はS54末であったが、諸種調査は相当以前から続けられてきていた。
本書を概説すると、現在の残存炭量は約7,000万tになる。
炭質はJISによれば褐炭に属し、水分13.4%、灰分は13〜15%、揮発分32〜38%、固定炭素30〜38%、発熱量概ね4,500calとされる。

4. 北山会誌から
母校北大工学部の50周年を機会に、関東地区に住む鉱山科同窓生を会員とする北山会を発足させ、2年ごとに会誌を発刊するようになった。これを知った母校をもつ道内の連中が北海道北山会誌の発刊を決め、関東地区が偶数年のため本道は奇数年と決まり、1983年春に創刊を開始した次第。
ここでちょっと、戦後発展したコンサルタント業務に関する事に触れたいのだが、技術士法制定は32年で、技術士の資格は国家試験に合格し、登録しなければ「技術士」と称することはできない。
会社の進めもあり私も受験、合格して現在会員であるが、17部門のうち特に鉱業部門はメリットが無いとして退会者が多く、往時の半数に過ぎない。
道内では59年1月現在で合格者432、登録者259、会員59である。
一陽来福を (北山会誌第3号から)
この格言は児玉君が「技術士」新年号の編集後記に使われたものの引用で、やがて彼も読んでくれると思うが一応お断りしておく。
ここで思うに、北海道北山会は道内に住む鉱山・資源科卒同窓生の集まりだが、輪を広げると北工会に、さらに広げれば北大同窓会までいく。それぞれのスケールに楽しいことを探せば良いだろう。
逆に小さくしたのが木鉱会だが去る12月の年末会で“19期の人まで入って貰おうや”ということに決めて、その初会合が8日17時から定例の会場で新会長を含め14名出席し極めて盛会だった。
私の小中時代は樺太で現在札幌と東京で毎年同窓会を開いているが、やがて消滅する運命にあり寂しい限り。
次にチッソマングループだが東京以北の在住者に関東遵風(じゅんぷう)会(以西は関西 ・ ・ ・ )の組織があり私は数年前に入れて貰っているが、関西会員中の舒蘭勤務実績をもつ人達の発案で関東側にも呼びかけがあり、60年に第1回舒蘭会が滋賀県大津市で開催され、発起人中に名前を入れられた私も出席せざるを得なかった次第。
この会も前記樺太同様やがて消滅する。
今政治的には第8次とかで1千万屯なる数値が出され閉山問題が深刻に議論されているけれど、これは単に外国炭より値段が高い国内炭の使用制限で、国内炭を別の姿に変えても駄目ということではない筈。
私の歩いた社会人の途(みち)は石炭“堀り屋”だが、スタートは液化原料供給企業だった。戦争から閉山へ。撫順で1ヶ月の次に阿吾地(あごち)での1ヶ月滞在の頃は、今思えば宗像英二さんが液化設備に関して海軍案との対抗が絶好調の頃だったようでした。
関東遵風会総会(60・6・21)での講演を「たより」で読み、更に年末「証言29集」が届き、森田穣(みのる)さんの「阿吾地法石炭直接液化の展開を」を読んで感激した次第。同氏の略歴を見ると何と生年月日が私と2日違うだけで、学校卒業ーチッソ系入社も同じ15年春。遵風会、技術士会も一緒、北大資源の客員研究員でもあられるようだから、近いうちに高森教授らに会って色々話し合う予定。

5.おわりに
奇しくも昨年9月19〜21日、北大学術交流会館他を会場とし、資源素材関係の全国大会が実施され、中でも石炭問題の将来については、重要課題とされていた。
国内炭の需要漸減は、避けられない事実かも知れぬが、しかし、私の天北炭液化の夢が消えることは無い。